女優の卵のＳ美は、やっとセリフのある役をもらえるようになったばかりだ。収入はあるが、女優だけでは食べていけない。

Ｓ美は日払いのコンサートスタッフのバイトをして、足りない収入を補っていた。コンサートスタッフとは、その名のとおりコンサート会場で観客を案内したり、グッズ販売をする仕事である。

担当の場所によっては公演を観ることができるので、女優の卵にとっては良い刺激を受けられる仕事であった。その日、Ｓ美はクラシックコンサートの会場で客席案内をしていた。

担当の場所は２階の客席。
コンサートが始まったら会場内で待機し、途中入場をしてきた観客を席まで案内する役目だ。

それ以外の時はコンサートを観ていることができる。会場の電気が消され、舞台の照明だけが煌々と光る。

登場したオーケストラの面々が、１曲目を演奏し始めた。ダイナミックで、迫力のある曲調である。

オーケストラの演奏する音楽を初めて聞いたＳ美は、すっかり夢中になった。目をつぶって、しばし音楽に心を預けてしまっていた。曲が終わってハッと我に返ると、入り口のドアの前に立っている女性客が目に入った。

音楽に気を取られて、ただひとつの仕事を忘れてしまっていたのだ。Ｓ美は急いで女性客に駆け寄った。

「申し訳ございません。お客様、ご自分の席はお分かりでしょうか？」

「……」

黒いドレスに身を包んだその若い女性は、Ｓ美の言葉に反応すること無くステージを見つめている。Ｓ美がもう一度声を掛けようとしたところで、２曲目が始まってしまった。このようなコンサートでは、客席間の移動は曲間に行うのがマナーだ。

女性客は、２曲目が始まることを知っていて動かなかったのかもしれない。Ｓ美は２曲目が終わったら、もう一度声を掛けることにした。

ところが２曲目が終わってＳ美が振り向いてみると、女性客の姿はどこにも見当たらなかった。コンサートは終わりに近づき、スタッフは観客がホールの外に速やかに移動できるように準備を始める。

ドア付近に移動しようとしたＳ美は、思わず途中で足を止めてしまった。あの黒いドレスを着た女性が、また入り口のドアの前に立っていたのである。

「おい、見えないよ」

通路の途中で立ち止まってしまったので、Ｓ美は観客に注意されてしまった。

「すみません」

姿勢を低くしながら入口の方へ移動すると、もうその女性の姿は無かった。コンサートが終了し、観客が帰ったら客席案内の係は帰宅になる。

しかしこの日は作業が遅れているということで、Ｓ美も道具の撤収を手伝うことになった。慣れない撤収作業を終えて外に出る準備をしていると、会場の奥から微かにヴァイオリンの音が聴こえてきた。

Ｓ美は、その音に体が吸い寄せられる感覚に襲われた。もう他のスタッフは全員外に集合している。

「早く外に出なくちゃ」

心ではそう思っているのだが、体が勝手に会場の奥へとフラフラ動いていく。

たどり着いた先は、大ホールのステージ裏。先ほどまでオーケストラが演奏をしていた場所である。

Ｓ美は舞台袖から、また「あの」女性を見てしまった。黒いドレスを着た女性が、舞台の中央でヴァイオリンを奏でていたのである。

Ｓ美が心を奪われた、コンサートの１曲目に演奏されたあの曲だ。女性は泣きながら、一心不乱に曲を奏でていた。

「見てはいけない、これは見てはいけないものなんだ」

Ｓ美は思った。女性の体が少し透けて、向こう側の景色が見えていたからだ。女性はさらに大きな動きで、ヴァイオリンを弾く。すると、流していた涙の色がだんだん赤く変わってきた。

そして、女性は血の涙を流した目を大きく開いた。

──ボロッ……。

女性の右目から、眼球が落ちた。ステージの上に転がった目は力なくバウンドした後に転がり、黒目がＳ美をとらえたところで静止した。

「見たくない、見たくない……」

Ｓ美は必死に目を背けようとしたが、体が言うことを聞いてくれない。

女性が、今度は左目を大きく開いた。

「おい、まだ誰かいるのか!?」

突然、ホールに男の声が響いた。体の自由が利くようになったＳ美が振り向くと、懐中電灯を持った警備員が立っていた。

ステージの上には、もう誰の姿も見当たらなかった。

「それ、もしかして事故にあって亡くなったヴァイオリニストがいたオーケストラじゃない？」

Ｓ美の話を聞いた友人が言った。

あのオーケストラには、将来を有望視されたヴァイオリニストが所属していた。しかし、海外公演の前日に交通事故にあって死んでしまったというのだ。

Ｓ美が見た女性は、志半ばで死んでいったヴァイオリニストの無念の形だったのだろうか。
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